原爆の日②
2021/08/06
1939年(昭和14年)にドイツのポーランド侵攻により第二次大戦がはじまりました。
その後ドイツはパリを占領、イギリスへの空爆、1941年(昭和16年)には独ソ不可侵条約を破棄しソ連に侵攻。
この段階でドイツは欧州の大半を占領しておりました。
この頃の日本はというと1937年(昭和16年)12月日本軍の攻勢により首都南京は陥落。 ※当時アサヒグラフの写真と記事によると
「平和息吹蘇った南京城内の街頭、皇軍の比護の下に彼等の生活をとりもどした」と、支那人の南京大虐殺妄想やプロパガンダとは真逆の南京城内で安心しきった南京市民の姿が…。
この頃のチャーチル、スターリン、将介石はアメリカの第二次大戦への参戦を熱望しておりました。
この三バカとルーズベルトは非常に仲が良かったといいます。ルーズベルトの側近にはソ連のスパイがゾロゾロいた 上に大統領就任直後にソ連を承認しています。チャーチルとも友好的で参戦前の1941年(昭和16年)8月にアメリカの参戦について話し合っております。将介石夫妻とルーズベルト夫妻も非常に親密であったといいます。当時将介石の妻宋美麗はアメリカ全土で演説を行い抗日戦と援助を訴え続けたといいます。
フランクリン・デラノ・ルーズベルトというのは母サラ・デラノ家という家系が支那貿易で財を成した家系です。
19世紀支那から労働者を連れてきて大陸横断鉄道建設に奴隷同然の過酷な労働をさせておりました。
当然支那びいきになるでしょう。
ルーズベルトは1940年(昭和15年)大統領選挙で「攻撃を受けない限りアメリカは参戦しないと」何回も繰り返しアメリカ国民を騙して大統領選を勝ち抜きました。※のちにハル・ノートなどの事実を知らなかった当時共和党党首ハミルトン・フィッシュは騙されたと、ルーズベルトの前第31代大統領フーヴァーは「ルーズベルトは宣戦布告なき戦争を仕掛けていた、たとえ自殺行為であると判っていても日本に戦争を余儀なくさせるものであった」と…
※ハルノートを日本に突き付けたとされるコーデル・ハル国務長官も内容は知らなかったといいます、実際に作成した人間がソ連のスパイ、ハリー・ホワイトという人間であることが明らかになっております。
日本海軍(五十六大将)の宣戦布告が1941年(昭和16年)8日、真珠湾攻撃の宣戦布告前に攻撃したなど何一つ関係のない話なのです。そもそもルーズベルトは爆撃の一報を聞いた時、チャーチルに連絡をしこれで参戦できると大喜びしたそうです。話が逸れますが三国同盟がアメリカの参戦をより早めたと思ってしまいます。
真珠湾攻撃後1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦まで日本は占領地を拡大したもののその後は連合軍の反撃により次々に制海権、制空権を失いました。1944年(昭和19年)7月にはサイパンを奪われ本土空爆を許してしまい 1945年(昭和20年)3月には東京の無差別空爆、同年4月に沖縄に上陸され破れます。
そして昭和20年8月6日午前8時15分に原子爆弾が投下されてしまいます。
1945年(昭和20年)4月に東郷外相は1941年(昭和16年)に締結された日ソ中立条約が有効なのでソ連に仲介してもらい和平交渉を行おうとしますがソ連はヤルタ会談で対日参戦を合意しており日本の依頼を受ける気はなかったといいます。そして1945年(昭和20年)7月のポツダム会談でアメリカとイギリスに日本が和平を求め仲介を頼まれた事を伝えますがその件を放置する事にしたと言われております。
日本は早い段階で終戦を望んでおりました、後は連合国が「国体護持」を受け入れてくれるかの一点のみであったのです。アメリカ政府は原爆投下によって早期終戦、人命救助という目的が達成されたと主張しておりますが、歴史的事実に照らしてみる限り否定せざるをえない。当然トルーマンの言う切羽詰まった必要措置でもない。
原子爆弾投下はただの民間人大量殺戮以外のなにものでもない。
ポツダム宣言受諾の決め手というのは条約破りの極東ソ連軍による満州・支那侵攻によるもので、アメリカの保守派 曰く原子爆弾投下は戦後の共産圏との覇権争いを見据えていたつもりが結果的にはただソ連の共産圏を広める為に利用されたと…
結局第二次大戦の勝者は火事場泥棒のソ連と支那中共であったように思えてしまう…
戦前白人至上主義であった世界の独立国は43ヵ国でした、それが戦後20年で169ヵ国にまでなりました。
これは日本の兵隊さん達が戦ってくれたおかげであるというのは世界の認めるところだと思います。
先の大戦でお亡くなりになられた国民へ哀悼の意を表します。
その後ドイツはパリを占領、イギリスへの空爆、1941年(昭和16年)には独ソ不可侵条約を破棄しソ連に侵攻。
この段階でドイツは欧州の大半を占領しておりました。
この頃の日本はというと1937年(昭和16年)12月日本軍の攻勢により首都南京は陥落。 ※当時アサヒグラフの写真と記事によると
「平和息吹蘇った南京城内の街頭、皇軍の比護の下に彼等の生活をとりもどした」と、支那人の南京大虐殺妄想やプロパガンダとは真逆の南京城内で安心しきった南京市民の姿が…。
この頃のチャーチル、スターリン、将介石はアメリカの第二次大戦への参戦を熱望しておりました。
この三バカとルーズベルトは非常に仲が良かったといいます。ルーズベルトの側近にはソ連のスパイがゾロゾロいた 上に大統領就任直後にソ連を承認しています。チャーチルとも友好的で参戦前の1941年(昭和16年)8月にアメリカの参戦について話し合っております。将介石夫妻とルーズベルト夫妻も非常に親密であったといいます。当時将介石の妻宋美麗はアメリカ全土で演説を行い抗日戦と援助を訴え続けたといいます。
フランクリン・デラノ・ルーズベルトというのは母サラ・デラノ家という家系が支那貿易で財を成した家系です。
19世紀支那から労働者を連れてきて大陸横断鉄道建設に奴隷同然の過酷な労働をさせておりました。
当然支那びいきになるでしょう。
ルーズベルトは1940年(昭和15年)大統領選挙で「攻撃を受けない限りアメリカは参戦しないと」何回も繰り返しアメリカ国民を騙して大統領選を勝ち抜きました。※のちにハル・ノートなどの事実を知らなかった当時共和党党首ハミルトン・フィッシュは騙されたと、ルーズベルトの前第31代大統領フーヴァーは「ルーズベルトは宣戦布告なき戦争を仕掛けていた、たとえ自殺行為であると判っていても日本に戦争を余儀なくさせるものであった」と…
※ハルノートを日本に突き付けたとされるコーデル・ハル国務長官も内容は知らなかったといいます、実際に作成した人間がソ連のスパイ、ハリー・ホワイトという人間であることが明らかになっております。
日本海軍(五十六大将)の宣戦布告が1941年(昭和16年)8日、真珠湾攻撃の宣戦布告前に攻撃したなど何一つ関係のない話なのです。そもそもルーズベルトは爆撃の一報を聞いた時、チャーチルに連絡をしこれで参戦できると大喜びしたそうです。話が逸れますが三国同盟がアメリカの参戦をより早めたと思ってしまいます。
真珠湾攻撃後1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦まで日本は占領地を拡大したもののその後は連合軍の反撃により次々に制海権、制空権を失いました。1944年(昭和19年)7月にはサイパンを奪われ本土空爆を許してしまい 1945年(昭和20年)3月には東京の無差別空爆、同年4月に沖縄に上陸され破れます。
そして昭和20年8月6日午前8時15分に原子爆弾が投下されてしまいます。
1945年(昭和20年)4月に東郷外相は1941年(昭和16年)に締結された日ソ中立条約が有効なのでソ連に仲介してもらい和平交渉を行おうとしますがソ連はヤルタ会談で対日参戦を合意しており日本の依頼を受ける気はなかったといいます。そして1945年(昭和20年)7月のポツダム会談でアメリカとイギリスに日本が和平を求め仲介を頼まれた事を伝えますがその件を放置する事にしたと言われております。
日本は早い段階で終戦を望んでおりました、後は連合国が「国体護持」を受け入れてくれるかの一点のみであったのです。アメリカ政府は原爆投下によって早期終戦、人命救助という目的が達成されたと主張しておりますが、歴史的事実に照らしてみる限り否定せざるをえない。当然トルーマンの言う切羽詰まった必要措置でもない。
原子爆弾投下はただの民間人大量殺戮以外のなにものでもない。
ポツダム宣言受諾の決め手というのは条約破りの極東ソ連軍による満州・支那侵攻によるもので、アメリカの保守派 曰く原子爆弾投下は戦後の共産圏との覇権争いを見据えていたつもりが結果的にはただソ連の共産圏を広める為に利用されたと…
結局第二次大戦の勝者は火事場泥棒のソ連と支那中共であったように思えてしまう…
戦前白人至上主義であった世界の独立国は43ヵ国でした、それが戦後20年で169ヵ国にまでなりました。
これは日本の兵隊さん達が戦ってくれたおかげであるというのは世界の認めるところだと思います。
先の大戦でお亡くなりになられた国民へ哀悼の意を表します。
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